2026年10月15日推しの戦国武将

戦国武将の愛妻家ランキングTOP3!大河ドラマで惚れた「誠実な夫」たち

こんにちは、ゆうこです。

戦国時代というと、「戦ばかり」「側室がたくさんいて当たり前」というイメージはありませんか?
実際、跡継ぎを残すことが家の存続に直結した時代ですから、正室のほかに何人もの側室を持つ武将は珍しくありませんでした。

ところが、大河ドラマを見ていると、その中に妻をひとすじに大切にした、誠実な戦国武将がいることに気づきます。
わたしは見ているうちにすっかり心をつかまれてしまい、「この人たちの夫婦の話をまとめたい!」と思ったのが、この記事を書いたきっかけです。

この記事では、ゆうこが選ぶ「戦国武将の愛妻家ランキング」TOP3として、

  • 第1位 直江兼続(なおえ かねつぐ)
  • 第2位 豊臣秀長(とよとみ ひでなが)
  • 第3位 明智光秀(あけち みつひで)

の3人と、その妻たちの物語をご紹介します。

なお、戦国時代の夫婦の話には、後の時代に作られた「言い伝え」もたくさん混ざっています。
この記事では、記録に残っている史実と「〜と伝わる」言い伝えをできるだけ分けて書きました。安心して読んでくださいね。


戦国武将に愛妻家はいたの?側室が当たり前の時代の「誠実さ」

まず、「戦国武将の愛妻家」とはどういう人を指すのか、少し考えてみます。

戦国時代の結婚は、ほとんどが家と家を結ぶための「政略結婚」でした。本人同士が選んで結ばれることは、まずありません。
さらに、男の子が生まれなければ家が途絶えてしまうので、側室を迎えることは「浮気」ではなく、当主の務めのように考えられていました。

そんな時代に、

  • 側室の名前がほとんど伝わっていない
  • 妻を家の大事な相談相手として頼りにしていた
  • 苦しい時期も、妻と支え合って乗り越えた

という武将がいたら……現代のわたしたちから見ても、「なんて誠実な人なんだろう」と思いますよね。

この記事では、こうした点から「愛妻家」と呼ばれる戦国武将を選びました。


ゆうこが選ぶ!戦国武将の愛妻家ランキングTOP3

まずは一覧でご紹介します。

順位 戦国武将 妻 愛妻家ポイント 登場した大河ドラマ
1位 直江兼続 お船の方 側室の名が伝わらず、妻と最後まで添い遂げた 『天地人』(2009年)
2位 豊臣秀長 慈雲院(ドラマでは「慶」) 兄・秀吉と違い、女性関係が控えめだったとされる 『豊臣兄弟!』(2026年)
3位 明智光秀 煕子(ひろこ) 妻ひとすじだったという逸話が多く残る 『麒麟がくる』(2020年)

ここから、1人ずつ詳しく見ていきます。


第1位 直江兼続|妻・お船と添い遂げた戦国武将きっての愛妻家

堂々の第1位は、上杉家を支えた知将・直江兼続です。
兜に大きく「愛」の文字を掲げたことでも有名ですね。(この「愛」は、愛染明王や愛宕権現から取ったという説が有力で、恋愛の「愛」ではないそうです。でも、愛妻家ランキングの1位にはぴったりだと思いませんか?)

お船の方ってどんな人?

兼続の妻・お船の方(おせんのかた)は、上杉家の重臣・直江景綱(なおえ かげつな)の娘です。

直江家には男の子がいなかったため、お船はまず信綱(のぶつな)という人を婿に迎えましたが、信綱は亡くなってしまいます。
そこで、主君の上杉景勝(うえすぎ かげかつ)の命で、新たに直江家の婿養子となったのが兼続でした。

つまり兼続は、「お船の家に婿入りした」立場。
お船は名家・直江家の娘として、ただ夫の後ろに控えるだけではなく、家の中のことを取り仕切る存在だったと考えられています。

側室の名が伝わらない、一途な夫婦

直江兼続が「戦国武将の愛妻家」として必ず名前が挙がる理由は、側室の存在が伝わっていないことです。

夫婦の間には3人の子どもが生まれましたが、残念ながらみな早くに亡くなってしまいました。
跡継ぎがいなければ、側室を迎えるのが当たり前の時代です。それでも兼続には側室の名前が伝わっておらず、お船と2人で生きる道を選んだように見えます。

ただし、「記録に名前が残っていない」ことは、「絶対にいなかった」という証明にはなりません。
ここは「側室を持たなかったと言われている」と受け止めておくのがよさそうです。

兼続亡き後もお船が守ったもの

兼続は元和5年(1619年)に亡くなります。夫婦に子どもがいなかったため、直江家はやがて途絶えることになりました。

けれどもお船は、夫の死後も上杉家のために力を尽くします。
主君・景勝の息子で、のちに米沢藩の2代藩主となる上杉定勝(さだかつ)の養育を任され、藩から厚く遇されました。

さらに、夫を供養するため、寛永6年(1629年)に高野山へ宝塔を建てたことが、米沢市の資料に残っています。
夫が亡くなって10年たっても、夫を思い続けていたことが伝わってきて、胸が熱くなりますね。

大河ドラマ『天地人』で見た夫婦の姿

2009年の大河ドラマ『天地人』では、兼続を妻夫木聡さん、お船を常盤貴子さんが演じました。

わたしがいちばん心に残っているのは、ドラマの最後の場面です。
兼続とお船が縁側に並んで座り、仲むつまじく過ごす姿で物語が締めくくられました。
戦や苦労をいくつも乗り越えてきた2人が、最後に穏やかな時間を一緒に過ごしている。その姿を見て、「ああ、この夫婦は本当に添い遂げたんだな」と、じんわり温かい気持ちになりました。

わたしがこの夫婦に惹かれるのは、兼続の誠実さが、主君への忠義だけでなく、妻への接し方にも表れているように感じるからです。
「一人の人を大切にし続ける」ことの尊さを、兼続とお船は教えてくれます。


第2位 豊臣秀長|兄・秀吉と正反対?誠実な愛妻家の戦国武将

第2位は、豊臣秀吉の弟・豊臣秀長です。
2026年の大河ドラマ『豊臣兄弟!』で主人公になり、一気に注目が集まっていますね。

妻・慶(慈雲院)はどんな人?

秀長の正室は、慈雲院(じうんいん)と呼ばれる女性です。
ドラマでの「慶(けい)」という名前は、法名(出家後の名前)の「慈雲院芳室紹慶」から取られたと考えられています。

実は、この女性について分かっていることはとても少なく、本当の名前も、生まれた年も、亡くなった年も分かっていません。
結婚は永禄10年(1567年)ごろと言われていて、秀吉の出世とともに、秀長も、そして妻も大きく運命が変わっていきました。

夫婦の間には与一郎という男の子が生まれましたが、天正10年(1582年)に幼くして亡くなっています。

夫の病に祈り続けた妻

秀長夫婦の関係がうかがえるのが、奈良・興福寺のお坊さんが書いた『多聞院日記(たもんいんにっき)』という記録です。

天正18年(1590年)、秀長の病気が重くなったとき、妻は興福寺に何度も病気回復の祈祷(きとう)を頼んだことが記されています。

残念ながら秀長は、翌年の天正19年(1591年)1月に亡くなりました。
「どうか夫を助けてください」と祈り続けた妻の姿からは、夫婦の深い絆が感じられます。

「公儀のことは宰相に」──秀長の誠実さを物語る言葉

秀長は、豊臣政権の中で人と人との間を取り持つ調整役として、とても信頼された人物でした。

九州の大名・大友宗麟(おおとも そうりん)が大坂を訪れた際、「内々のことは千利休に、公のことは宰相(秀長)に相談せよ」という意味の言葉をかけられたことが、宗麟の手紙に残っています。
天下人の弟でありながら偉ぶらず、まわりから頼りにされる。そんな誠実な人柄が伝わってきますね。

兄・秀吉との違い

兄の秀吉には、淀殿をはじめ多くの側室がいたことがよく知られています。
一方の秀長は、兄に比べて女性関係がずっと控えめだったと言われています。

ただし、秀長にも側室がいたという説はあり、「側室がまったくいなかった」とまでは言い切れません。
また、夫婦の仲の良さを直接書いた記録も多くはありません。
それでも、派手な兄の陰で、妻を大切にしながら地道に支え続けた秀長の姿に、わたしは「誠実な夫」を感じずにはいられません。

大河ドラマ『豊臣兄弟!』で描かれる夫婦

『豊臣兄弟!』では、秀長を仲野太賀さん、慶を吉岡里帆さんが演じています。
ドラマには創作の部分もありますが、史料が少ないからこそ、ドラマが描く夫婦の姿に想像がふくらみますね。


第3位 明智光秀|妻・煕子ひとすじと伝わる戦国武将の愛妻家

第3位は、本能寺の変で知られる明智光秀です。
「主君を裏切った人」というイメージが強いかもしれませんが、夫婦の話になると、まったく違う顔が見えてきます。

煕子の「あばた」の言い伝え

光秀の妻は煕子(ひろこ)と伝わっています。
2人の結婚には、こんな有名な話があります。

結婚が決まったあと、煕子は病気(天然痘)にかかり、顔にあばたが残ってしまった。
煕子の父は、よく似た妹を代わりに嫁がせようとしたが、光秀はそれを見抜き、「わたしが妻にすると決めたのは煕子どのです」と、煕子を迎えた。

なんとも胸がきゅっとなる話ですよね。
ただし、これは江戸時代に書かれた物語などに出てくる言い伝えで、史実として確かめられたものではありません。

黒髪を売ってもてなした妻と、芭蕉の句

もう一つ、有名な言い伝えがあります。

光秀がまだ貧しかったころ、大切なお客様をもてなすお金がなかったとき、煕子は自分の黒髪を切って売り、そのお金でもてなしの席を用意したというものです。

この話は江戸時代にはよく知られていたようで、松尾芭蕉は伊勢を訪れたとき、

月さびよ 明智が妻の 咄(はなし)せむ

という句を詠んでいます。
「月よ、しみじみと照らしておくれ。これから明智の妻の話をしよう」というような意味です。
芭蕉が、自分をもてなしてくれた家の奥さんを、光秀の妻になぞらえてほめたと言われています。

側室を持たなかったと伝わる理由

光秀が愛妻家と言われる一番の理由は、側室を持たず、煕子ひとすじだったと伝わっていることです。

ただ、光秀や煕子については、確かな記録がとても少ないのが実情です。
「側室がいなかった」というのも、ここまで紹介した話と同じく、後の時代に広まった光秀像の一つと考えておくのがよいでしょう。

煕子は天正4年(1576年)ごろに亡くなったと伝わり、滋賀県大津市の西教寺(さいきょうじ)にお墓があります。
西教寺は明智家の菩提寺で、光秀のお墓もここにあります。夫婦が今も同じお寺に眠っていると思うと、少しほっとしますね。

大河ドラマ『麒麟がくる』で見た夫婦

2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』では、光秀を長谷川博己さん、煕子を木村文乃さんが演じました。

「裏切り者」と呼ばれることの多い光秀ですが、家族を大切にする姿を知ると、また違った見方ができるようになります。


まだいる!愛妻家として知られる戦国武将(番外編)

TOP3には入れませんでしたが、ほかにも「愛妻家」として名前が挙がる戦国武将がいます。

山内一豊と千代

土佐藩の初代藩主・山内一豊(やまうち かずとよ)の妻・千代は、「良妻賢母」の代表のように語られる女性です。
貧しかったころ、千代が嫁入りのときに持ってきたお金を差し出し、一豊に立派な名馬を買わせた……という話が有名です(これも言い伝えとされています)。
一豊は、妻の支えで出世した「夫婦二人三脚」の武将と言えそうです。

細川忠興とガラシャ

細川忠興(ほそかわ ただおき)は、明智光秀の娘・ガラシャの夫です。
ガラシャをとても大切にしていたと言われる一方で、その愛情が強すぎて、ほかの男性が妻を見ることさえ嫌がった……という激しい話も伝わっています。
「愛妻家」というより「愛が重すぎる夫」として、ランキングでは番外編にしました(笑)。


戦国武将の愛妻家に共通する3つのこと

今回ご紹介した戦国武将の愛妻家たちには、共通点があるように思います。

1. 妻を「相談相手」として大切にした
お船も、秀長の妻も、家の中を支える大事な存在でした。妻をただ守るのではなく、信頼して任せていたことが分かります。

2. つらい時期も一緒に乗り越えた
子どもを亡くした悲しみや、貧しかった時代。いいときだけでなく、苦しいときにそばにいたからこそ、夫婦の絆が深まったのではないでしょうか。

3. まわりの人にも誠実だった
兼続は主君に、秀長は兄に、光秀は家族に。妻を大切にする人は、まわりの人にも誠実だったように思えます。


まとめ|戦国武将の愛妻家から学ぶ、夫婦の誠実さ

最後に、ゆうこが選んだ「戦国武将の愛妻家ランキング」をおさらいします。

  • 第1位 直江兼続:妻・お船と最後まで添い遂げ、側室の名が伝わらない一途な夫
  • 第2位 豊臣秀長:派手な兄の陰で、妻を大切にしながら豊臣家を支えた誠実な弟
  • 第3位 明智光秀:妻・煕子ひとすじだったという言い伝えが今も愛される夫

戦国時代という厳しい時代に、一人の人を大切にし続けた武将たち。
大河ドラマで彼らの姿を見て、「誠実さ」は時代が変わっても人の心を打つものなのだと、あらためて感じました。

みなさんが思う「戦国武将の愛妻家」は誰ですか?
推しの武将や、好きな大河ドラマの夫婦を思い浮かべながら、もう一度ドラマを見返してみるのも楽しいですよ。


参考にした資料

  • 米沢市立図書館の郷土資料(お船による高野山の宝塔について)
  • 『多聞院日記』の記述を紹介した解説記事(豊臣秀長の正室について)
  • NHK大河ドラマ『天地人』『麒麟がくる』『豊臣兄弟!』の番組情報

※戦国時代の人物には諸説あります。この記事では、記録に残る史実と、後の時代の言い伝えを分けて紹介するよう心がけました。